第15回 唐松岳大会 山の講話・講演会

日本山岳ガイド副会長

今井 通子

講演会

山岳ジャーナリスト

菊地 俊朗

日本山岳ガイド副会長

降籏 義道

山岳環境研究所所長

肴倉 孝明

元県警遭難救助隊長

中嶋 豊

大会隊長

大蔵 喜福


「山の講話」 

『雨の八方池山荘で』   


日本山岳ガイド協会副会長

今井 通子

 ご紹介いただきまして、ありがとうございました。今現在、ここにお集まりの皆様方の中には、初めての方も、昨夕の歓迎式典でご紹介いただいた時御出席されていらした方も、後ろの方に山仲間もいますが、改めまして、ご紹介いただいた今井でございます。さっそくですが、昨夕、「明日天気になーれ」と念じましたのに、残念ながら今日は雨ですね。そして、その雨の中、午前中は八方池まで行かれ、かなり濡れてしまわれた方々もおありのようで、下に降りられた方も続出でしたが、今ここに残られている方々は、装備もしっかりされていて、雨にも負けず、当初の予定通り今晩はこの八方山荘にお泊りになり、明日下山される方々ですよね。会長の坂口三郎様はじめ自然界との対峙に長けた方々ばかりと言うことですね。(会場から誇らしげな笑い)ところで、今般引き受けさせていただきました講話ですが、講話という事だけでお題をいただいておりませんので、(笑い)思いつくままの話になってしまうと思いますが、しばらくの間お付き合いいただければ幸いです。

 御存知のように白馬村周辺の山々は、飛騨山脈の北部、後立山連峰に属しています。白馬岳(標高2932m)を中心に、南に向かって杓子岳、白馬鑓ヶ岳(この三山が白馬三山)、唐松岳、五竜岳と続き、北に向かうと雪倉岳、朝日岳と続きますので、この一帯はピークハント登山だけではなく、南北共に稜線上の縦走登山にも向いていますが、実は、私と白馬村との出会いは登山では無く、スキーでした。私の実家では、両親が結婚する前にも谷川岳の一の倉沢を滑りに行っていたらしく、私が小学校の2年生の時から正月はスキー場でした。八方尾根スキー場が出来た頃からは、こちらに来ていましたが、当時は東急ホテル位しか無かったので、東急ホテルに泊まり、八方尾根と言っても、今日皆様はテレキャビン、リフト、リフトと乗り継いでここまで来られていますけれど、当時は一番下のテレキャビン分だけ位の所に上り、私たちはピョンピョン平と言っていたのですが、兎平から滑るというコースでした。1960年だったと思いますが、この年の3月は、3日間程滑った後で、私が、今で言う熱中症、当時は日射病と言っていました、になってしまい、ホテルのスリッパを履いたまま東京の自宅へ帰ったなどという事がありました。高校3年生で、受験のため一年間海へも山へも行かなかったので、自然界の刺激に体が対応出来なかったようです。大学に入り、周囲からは医学部に入ったの?それとも山岳部に入ったの?と言われる程、と言っても月一度の山行に出かけ、夏休みは一週間程の夏山合宿だったのですが、ここでも白馬村とは御縁があり、大学側が、お嬢ちゃまたちが山岳事故を起こさないようにと派遣されたのが、今で言う山岳ガイド、当時は山案内人と言われていた白馬村在住の丸山忠一さんでした。夏山の縦走は、北、南、中央アルプスなどに行きましたが、いつも彼が案内して下さっていました。当時はテントや登山装備、食料一週間分等々の団体装備を分担して、プラス着替え等個人装備も各々持つので、キスリングの重量は30s程になります。東京では、千葉のオバサンと呼んでいた、お米やお餅、野菜その他を丸い竹籠に背負って家々を訪ねて売り歩く方々がいたのですが、(会場からうん、うん、知っている等の声)彼女たちには臀部と下部の背中を繋ぐ筋肉が出来ていたそうで、大学3年生の頃は私にもその筋肉が出来ました。(オーの声)冬山は危険という事で、冬はスキー合宿でした。チュウさんと呼んでいた丸山さんの今で言う民宿に集合し、ピョンピョン平の黒菱小屋、あの辺りですかね。(と斜下を指差した所、参加者の方があっちですとお教え下さる。)からさらに雪の斜面を10分位奥に行った所に住友の小屋という山小屋があり、ここで合宿していました。チュウさんの妹さんのケサエさんが国体の選手だった事もあり、スキーはケサエさんに教えていただいていたのですが、ある朝、遭難騒ぎがあり、私たちは直接現場を見てはいないのですが、前夜の猛吹雪で、住友小屋のわずか数百m奥の斜面で、雪まみれの凍死体が発見されたと聞きました。合宿中の夜間に、上級生の彼氏が小屋まで陣中見舞いに来られた時の彼の姿はヒゲまで凍っていた事もあったり、又、私たちが第一ケルンに一度は行って見たい(ここで又、第一ケルンはあっちですと参加者の方が指差しされました。)と言った時は、冬山装備、ザイル、ピッケル、アイゼンその他を揃えた事もあります。今は、上の小屋から眼下の景観として見る事の出来るテレキャビンの終点に広がる草原に居る事も、すぐこそにある第一ケルンへ登るのも大仕事だった程、当時の冬の夜のピョンピョン平とその上部は厳しい自然の真っ只中でした。

 そう言えば、一番の空中ケーブルカー(当時はゴンドラと言わずケーブルカーと言っていました。)が来る前のゲレンデは、黒菱小屋に宿泊している方々と私たちだけの銀世界でしたが、ある日から、やたら早朝にケーブルカーが来るようになり、そこから出て来た人たちは、スキーを履いたとたん一気に滑り降り、20分程度で又上がって来る時がありました。当時八方尾根のスキー場は、高度差もあり最も大きなスキー場の一つだったようで、冬期オリンピックを控えた選手たちのトレーニング場だったとのことで、やたらカッコ良く、アッと言う間のスピードで滑り降りていました。下の村まで3分程で滑られていたそうです。

 社会人になっても白馬村とはずっとお付き合いがありました。1905年、白馬岳山頂直下の測量用石室の使用権を獲得した松沢貞逸氏が、日本初の営業山小屋を建設された事は有名な話ですが、氏は、1900年、若干11才で白馬岳に登頂し、5年後には白馬山荘の前身を建てた事になります。当時は信仰登山が多かった時代で、当初は登拝を目的に登って来る登山(トウセン)者の宿泊施設として使用されたそうですが、現代でも白馬岳は、登頂、縦走等々特に夏山登山は大人気で、現白馬山荘は収客人数が日本最大の山小屋となっているだけでは無く、予約制の個室、展望の効いたレストランもあります。私は一般的には8月いっぱいで終わる夏の休暇の一週間後の週末、毎年白馬山荘の方々や白馬館の方々と、猿倉、白馬尻、白馬山荘泊、白馬山頂、小蓮華、白馬大池、白馬乗鞍岳、栂池の縦走に約10年間同行させていただいていました。毎年同時期に同ルートを回り、地球環境の変化をずっと体感して来ました。猿倉からの大雪渓がどんどん遠くなる、又ある年は、名古屋で35℃を記録したとラジオから聞こえているのに、小雪渓手前の草付きで2℃、口が強張ってしゃべりにくくなった事もあります。温暖化だけでは無く、気候変動が、局地差、寒暖差、両極化して激しさを増しているようです。マスコミのいうゲリラ豪雨で大雪渓が幅3〜50m程上から下まで流れ落ちてしまった年もありました。これにより、底の流れと岩が露わになり、雪渓の底で岩を削った岩石の跡が発見され、大雪渓が氷河だったと確認されたそうですが、7〜80名の方々と登りながら、夏なのに参加者の熱中症と低体温症の両方に気を配り、天候の急変を案じが、年を追う毎に頻繁になりました。お花畑を過ぎ頂上に通じる主稜線に出た所に、日本で3番目の規模の村営白馬岳頂上宿舎があります。毎年寄って、天候が良く暑い年は冷えた飲み物を、天候が悪く寒い年は熱いおしるこ等を注文していましたが、だんだんおしるこの注文が増えました。又ある年は、長野県戸隠在住の友人アーティストに、山荘のテラスでシンセサイザーなどの演奏と歌を唄ってもらいました。晴れたその午后遅くから夕暮れ、夕闇へと進む太陽の照明に照らされる周囲の山々を見ながらのコンサートは素晴らしかったですが、翌朝から大豪雨で、私たちは帰途につきましたが、彼らは楽器が降ろせないので誰も来ない山荘で一週間スタッフの方々と過ごしたという、とても申し訳ない事をしてしまった事もあります。白馬村とは他にも関係があり、今日皆様に同行したヨシミッチャン(降籏義道、白馬村新田在住、公益社団法人 日本山岳ガイド協会 副会長)の田んぼをお借りし、約20年間私たちのクラブでは米作りをしています。従って、毎年少なくとも、4月中頃田の準備、5月中頃田植え、6.7.8月草取り、10月稲刈りと、白馬通いをしているのですが、あれは2012年でしたか。晴れた日で、田植えをしていたら、いつもよりずっと寒く手先が冷たくなり、氷室の中から排出されて来る冷気のような風が山から下りて来ました。やがて天気雨がパラパラ降り出し、さらに寒さが増し、私たちは一旦作業を中止し、防寒着を着た上に雨具上下で完全装備にしてから、田植えを再開しましたので、凍るような吹きおろし風と上空を走る雲から落ちて来る天気雨には耐えられ、作業は無事終了出来ました。が・・・。(一瞬沈黙)後で知った事ですが、その頃、白馬岳山頂付近では大変な事が起こっていて、結局6人パーティが全員死亡するという事故だったのです。ネー、ヨシミッチャン、覚えてる?アレッ!!眠ってる。(クスクス笑い)降籏さんがお休みのようなので、彼が眠っている内に、"旅の者"である私から、今日はこちらへお泊りになる皆様の中で、明日の天候によっては、もう少し白馬村周辺の自然散策をしてから帰られようとされる方のために、気軽に行ける数ヶ所を御紹介してしまいます。昨日から白馬岩岳ゆり園の御紹介がしばしばありましたが、ゆり園のゆりは、斜面いっぱいに各種あり見事ですが、植えられた物ですので、岩岳ゴンドラ駅からゴンドラ「ノア」で山頂駅へ行くと、広々とした台地の奥に大きな山頂レストラン「スカイアーク」があります。ここで昼食を取っても地元の食材なのでおいしいです。レストランに向かって左側の小道を進んで行くとブナ等の紅葉樹林帯に入り、道なりに進むと1時間位で周遊出来るコースになっています。まず、周囲の広葉樹林とは全く違うネズコの木の塊が出て来ますし、さらに進むとグニャッと曲がって馬乗りになれそうな木も出て来たり、天候が悪くても雷注意報が出ていなければ、軽いハイキングとして楽しめます。天候が良くなっていれば、山頂駅では白馬三山の大展望が望めます。白馬三山の展望と言えば、晴れていれば、又は次回白馬村に来た時にさっと行けるのが、白馬駅の一本糸魚川寄りにある信号の所で右に曲がって踏切を渡って線路の南側に出てR406を進むと木流川 詩の小道があります。ここはもうかなり以前にヨシミッチャンから、白馬三山の撮影場所として教えてもらった所ですが、今ではちょっとした駐車場もあり、橋の欄干から川の流れを見、小径へ入ると森の斜面の中央に小さなレストランとお立ち台的展望台もあります。見終わったら大出の吊り橋まで沿道を見物しながら往復して来ても良いでしょう。やはり天気が良ければの話ですが、車移動で白馬三山を見て帰りたい場合は、R406の森の道をひたすら白沢峠のトンネル手前まで行くと良く見えます。また、自然散策ではありませんが、かなり以前に、白馬村のおらが村作り大賞の選考委員をしていて推薦した集落があります。これも最初はヨシミッチャン案内でしたが、青鬼集落へ行き、山菜採りや祠を見て来ました。その後何度も訪れています。重要伝統的建造物群保存地区になってからはちょっときれい過ぎですが、古代米の紫米を作っている棚田と、並んだ古民家が石垣でスペースを作った土地にあり、昔の人々の労力に関心しますが、もっと驚くのは川から堰を作って棚田用に水を引いたその堰の淀みない流れです。測量用の機器の無い江戸時代に、人海戦術で、対岸の斜面で見る人と斜面上で提灯を持ち、斜めになるよう並んだ人々との遣り取りで、堰の位置、傾斜度を決めたとの事。昔の人々の知恵にも感服です。この集落には観光地的(門前町的)な店はなく、ここを訪れた人々が白馬村で寝泊まりや温泉入浴、買い物等々してくれれば良いからと、親しくして頂いていたこの集落の方から伺い、昔の人の奥の深さにも敬服しました。天候にはあまり左右されませんので、民俗の見学としてここもお薦めです。まだまだお薦めはありますが、時間になってしまったようなので、終わりにしたいと思います。御清聴ありがとうございました。雨音はじめ自然界の中の音しかない世界で今夜はゆっくりお休みください。

今井通子さんプロフィール


1960年、女子学院高校卒業、東京女子医科大学入学、山岳部に入部。女性初 マッターホルン(1967年7月19日)・アイガー(1969年8月15日)・グランドジョラス北壁

(1971年7月17日)を制覇。グランドジョラス山頂で高橋和之さんと結婚。カモシカ同人ダウラギリW峰遠征には医師として同行。その後、冬のエベレストに夫婦でダブルアタックを試み話題になったが失敗。

1987年、朝鮮半島の最高峰白頭山に登頂。8000メートル峰のチョ・オユーに夫婦で遠征。

近年は地球環境保護問題や自然と健康のかかわりなどについて各地で講演活動などを行っている。

両親は1979年11月、ニュージーランド航空機による南極遊覧飛行中の墜落事故の犠牲となった。政治家で軍縮運動を推進した宇都宮徳馬は伯父にあたる。ニッポン放送の『テレフォン人生相談』で1992年[1]より回答者を務めていたが、2002年からはパーソナリティを務めている。


「山の講話」

『白馬岳の由来』


日本山岳ガイド協会 副会長

降籏 義道

 

白馬岳(ハクバダケ)の名前の由来について申し上げたいと思います。

白馬岳と小蓮華岳の鞍部近くにできる、馬の雪形がその由来と云われています。春、田んぼを耕し、稲苗を植えやすくするために、田に水を入れ土を泥状にする作業を「代掻き(シロカキ」という。その作業をする馬を「代?き馬」と呼んだ。代掻きを始める頃になると、その雪形が現われるので、それを「代?き馬の雪形」と呼び、「代?き馬」から「代馬(シロウマ」と呼ぶようになったというのが一般的な説である。しかし、代?き馬とは呼ぶが、代馬と地元では呼ばない。そもそも、その雪形は垂直の岩壁で、冬でも「馬型(?)」をしているのである。地元でその雪形を見て、代掻きを始めた歴史はない。

「シロウマ」の名前が大々的に表れるのは、植物学者の牧野富太郎が白馬岳に登り、新発見した高山植物の冠名が「シロウマ・・・・」であった。最初に登った白山では「ハクサン・・・」、次は「タテヤマ・・・」と冠名がついている。明治30年代のことだ。なぜ「ハクバ」ではなく「シロウマ」を使ったかわからないが、これにより「シロウマ」の名前が一気に広がっている。白馬岳の初登頂は明治16年、当時の大町市の小学校校長と郡長(現・地方事務所長)とされている。私は以前、その時の日記のコピーを見る機会があった。筆字で書かれた日記の中にカタカナで「ハクバ」と書いた文言があったのである。古絵図にも「白馬嶽」と載っているが「代馬」という文字はない。

 私の祖父は白馬における登山ガイドの草分けの一人だ。そんな縁で古くから、お客である都会の人が家に出入りしていた。幼い私には誰か分からないが、「シロウマ」という人は都会の人。「ハクバ」と呼ぶ人は近所の人と区分けしていた。地元の人は昔から「ハクバ」と呼んでいたのである。

白馬連峰の南に五竜岳がある。この名の由来は武田信玄の家紋「四割菱(ヨツワリビシ)」だという説がある。白馬村の一角から見ると五竜岳の頂上直下東面に、見事な「四割菱」の雪形が春になると現われる。この武田家の御紋を「御菱(ゴリョウ)」と呼び、それが「ゴリュウ」になまって、五竜岳になったというのである。しかし、大町市方面からは「四割菱」は見えない。五竜岳のコブ的存在の白岳(シラタケ)は真っ白くきれいに見える。半面、白馬村から見る白岳は岩壁で黒く、五竜岳に重なり、どこが山頂か判別もしにくい。五竜岳のコブ的存在の白岳の名を付けながら、本峰の名前を付けないはずがない。だから、五竜岳の命名に「御菱」からの発想には無理がある。

白馬や五竜の山名の由来は分からない。しかし、誰かが最もらしく物語を作るから混乱が生まれる。私はテレビドラマや映画の登山技術アドバイザーとして多くの制作に加わってきた。ある時、台本に「シロウマ」があった。監督と脚本家に掛け合い「ハクバ」に直すようにお願いしたことがあった。しかし、広辞苑に出ている文言を使うことを義務付けられているとのこと。二人は相談して「地元ではハクバと呼んでいる」言うセリフを加えてくれたことがある。地元で使われていた言葉は無視され、文化人(?)が使った言葉や物語が一人歩きしているのである。実に滑稽なことだ。これからは、是非「ハクバダケ」と呼んでいただきたい。

 

降籏義道さんプロフィール


白馬に生まれ、白馬に育つ。20才のとき南米パタゴニア・アンデスの難峰パイネ・ノルテに初登頂。

以来ヨーロッパアルプス・ヒマラヤへと遠征が続く。チョモランマ(エベレスト)・アンナプルナ・マナスルなど超高所でのスキー登山を実践。スキーは3才から始め、24才のとき全日本スキー連盟デモンストレーターに認定。1993年日本人として初めて国際山岳ガイドに承認される。

現在、(公益社団法人)日本山岳ガイド協会副会長・日本山岳会会員・前白馬山案内人組合長・前北アルプス山岳救助隊隊長・元白馬岩岳スキースクール校長など・・・


ホテル・ラ・モンターニュ・フルハタ

長野県北安曇郡白馬村岩岳

TEL 0261-72-2156

http://www.hakuba-furuhata.com/

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「山の講話」

『八方池山荘にて』 


元長野県警察山岳遭難救助隊長

中嶋 

今日は今井通子さん、降籏義道さん、大倉喜福さんと世界を又にかけてご活躍されている皆さんがおいでですが、そんな中なぜ私がと言うことですが、私の場合少し切り口が違いまして、県警で山岳救助に従事していたとの立場からお話をさせていただきたいと思います。こちらにも遭対協の救助隊の方がおられますが、救助隊は遭難事故が発生するから必要なのですが、その中で私は警察の救助隊で活動してきました。その救助隊ですが、長野県警3800人の警察職員の内、山岳救助隊員は隊長以下35人だけで全体の1%程しかいません。この35人で県内の全ての遭難に対応するのは困難で、十分な活動ができませんので、民間の遭対協救助隊の皆さんの力を借りています。県内では現在はヘリコプターによる救助が多くなっていて、年間300件近い遭難のうち8割近くの救助活動にヘリを使っている状況にあります。残念なことにヘリの救助に頼っていると、個々の救助隊員の出動する機会が減ってしまい、県警も遭対協も隊員の救助技術のレベル低下が心配されるところです。民間の隊員の中には「遭難が発生したら又ヘリでやればいいじゃないか」と言うような言葉も聞かれますが、そうは言っても、今日のような悪天候であったり、夜間の事案にヘリでの救助活動はできませんので、地元の遭対協の皆さんの人力に頼らなければならないことになります。

 救助隊の仕事は、山に登って終わりでは無くて、そこから現場に行ってさらに遭難者を救助して戻ってこなければならないわけです。だから、余り遭難が多いと救助隊員を危険にさらす機会が多くなるわけですが、救助隊員は危険を承知で人命救助に当たってくれているんです。ちなみに、遭対協の救助隊員は県下13区に約1000人の登録がありますが、このうち実際に救助活動に従事できる隊員は100人程ではないかと思います。今年も白馬大雪渓で雪崩事故がありましたが、その際も県警だけでは対応ができないので遭対協の皆さんにも出動していただいています。そうした中で遭対協の隊員が出動する場合は、自分の仕事を休んで出てもらうことになりますので、当事者はその隊員に日当を支払わなければなりません。私が駆け出しの頃、県警救助隊は機動隊に10人と警察署に数人しかいませんでしたので、多くの救助や遺体収容は遭対協の皆さんと一緒に出動していました。11月初旬の奥穂岳の遭難では、県警が私1人、遭対協隊員が10人出動し、稜線から滑落して死亡した遭難者の収容に当たったことがありました。稜線の登山道から120m程下の急斜面からの遺体収容でしたが、遭対協隊員と私の二人が11ミリ40mのザイルをつないで降りていき遺体を引き上げ、最終的には吊尾根の最低鞍部まで収容したのですが、この遭難は厳寒の中、早朝から真夜中までの行動でした。その際の日当が1人10万5000円でした。そうすると10人で1日105万円になりますが、この時は3日かかりました。この他にザイルなどの消耗品や宿泊費などの負担もあります。要は遭難事故にはお金がかかりますよと言いたいのですが、皆さんには是非山岳保険には入っておいていただきのです。ところが反対のことを言うようですが、最近では先程お話ししたようにヘリ救助が主体となっていますが、県警や防災ヘリは無料です、民間ヘリは有料ですが近年出動はほとんど無く、昔のようにヘリの救助にはお金はかからなくなりました。そうすると保険屋さんが儲かる感じでもありますが、そうはいっても先程の例のようにヘリ救助ができない場合は、民間救助隊の皆さんの力が必要になります。だからお金持ちは別として、やはり保険は必要だと思います。保険と言ってもいろいろな種類があるので、その補償内容について、自分には死亡保険金が必要とか、入院、通院費用を多くとか、救難費用が必要だとか、また、山で落石などで人に怪我をさせてしまうこともありますので損害賠償費用の補償などを含めて、良く検討して加入した方がいいと思います。

さて今日は久しぶりに八方尾根に来ました。ここにはケルンが6個ありますが、私には思い出がありまして、1980年、昭和55年12月、神奈川県の逗子開成高校の先生と生徒さん5人が行方不明となった遭難事故が発生し、当時本部にいた私と隊員1名が捜索に入りました。その年は凄い豪雪でしたが、私たちは当時、自衛隊のヘリに搭乗して八方尾根の捜索に入りました。北側からの横殴りの吹雪でしたが、第2ケルンの所でテントを発見し中を確認をしましたが誰もいませんでした。その後遭難者は、5月連休になって北側の沢筋で発見になりました。この遭難は、その後家族と学校とで訴訟問題に発展しましたが、当時を思い出す感じで第二ケルンと開成高校のプレートがはめ込まれたケルンを見てきました。冬の八方尾根は冬場は雪が多く真っ白で幅広いのでルートを見誤ることが多く、荒天の場合には十分な注意が必要です。

 さて、救助に使うヘリですが、私は2度県警航空隊に勤務しました。県警には、これまで4機のヘリが入りましたが、それぞれのヘリに思い出があります。1機目の「やまびこ」(ベル222)と2機目の県政機「しんしゅう」(ベル206L-3)は実際に搭乗して救助を行いました。3機目の「やまびこ1号」は、1機目の後継機としてより一層パワーのあるヘリをと言うことで機種選定したヘリで、4機目の{やまびこ2号」は退職直前に宇都宮まで機体受領(受領日は、奇しくも1号機の型式番号222と同じ2月22日でしたが、受領日の選定は私の有終の美を飾ってくれたのかも知れません。)に出向いた思い出深い機体です。ところで皆さんは、ヘリというのは、どんなヘリでも救助ができると思うでしょうが、やはり力(パワー:高高度性能が良い)がないと救助用務はできません。力の無いヘリは、座席を外したり燃料搭載量を減らすなどして機体重量を軽くして飛行するのですが、最も大変なのはホバリングです。ただ飛んでいるだけならどんなヘリでもできますが、救助するには空中停止しなければならないからです。現在の県警が保有している2機は、いずれも槍の頂上で2~3人は吊りつり上げるパワーがありますし、遭難者を吊り上げるホイスト(ウインチ)の能力についても、初代やまびこは20m程しか伸ばせず、しかも1人ずつしか吊り上げたり下ろしたりできませんでしたが、現在では80mも延び2人同時に吊り上げられるなど、機体性能と言いますか救助能力が格段に向上し、より高度な効率的な救助ができるようになりました。もう一つ重要なことは、操縦士の腕前ですが、私は日本一遭難事故が多く、険しい山岳でのレスキューに当たっている当県警の操縦士、そして酷使している機体の整備を行っている整備士は、日本一だと思っています。さて、残念なことに先般、長野の防災ヘリが墜落しました。亡くなられた皆さんのご冥福をお祈りしたいと思いますが、この事故、航空事故調査委員会では機体に異常は見られなかったとの見解を示しましたが、そもそもヘリというのは、そのときの気温や標高、機体重量などによって性能に影響が出ます。ご承知のとおり、ヘリや飛行機は風上に向かって離着陸するのが普通ですが、風や気流は目に見えませんので、操縦はかなり大変です。しかも高高度で気流が不安定な山岳地帯となるとなおさらで、気流が安定していればまだしも、往々にして遭難事故が発生するような時には、気流などは荒れていることが多いのです。特に尾根や稜線の前後では上昇気流、下降気流、乱気流などに影響されます。また背風で飛行するとなかなか高度を上げられません。上高地の梓川で背風を受けて飛行したヘリに乗っていた時、速度も高度もなかなか上がらずに木の枝すれすれに飛行した時には肝を冷やしましたが、防災ヘリは9人搭乗して燃料も多量に積載していたとなると機体が重すぎたのではないかと思っています。優秀な防災航空隊員が亡くなってとても残念に思います。今後はしばらくの間、県警ヘリのみで救助活動をすることになりますが、長野県警だけで対応ができない場合には、隣接の岐阜や山梨、富山県警などに出動をお願いすることになります。また、長野県警も他県の応援に出向くこともあります。ただ、県警のヘリはお金がかからないといっても、山岳という危険な状況の中で救助活動していますので、遭難事故は起きてほしくありません。

 山の話ばかりだと退屈でしょうから、私の現役時代の手柄話をします。私は佐久警察署長として2年間勤務していましたが、この間に殺人1件と強盗3件の凶悪事件を解決に導いたことがありました。殺人事件は、長野県南牧村におけるニューハーフ殺人事件で、強盗事件は御代田町と佐久市のコンビニ強盗事件(これは同一犯)、強盗のもう一件はニューハーフ殺人事件の発生直前に同じ南牧村のコンビニで発生したものですが、いずれの事件も署長、刑事課長のコンビで事件検挙の端緒を切って解決したものです。(内容省略)

 さて、私は現在、長野県山岳遭難防止対策協会から遭難防止アドバイザーを委嘱されています。遭難事故が多発傾向にある現在、楽しいはずの登山が悲しいものとならないよう、皆さんの中から遭難者を出さないよう気をつけて登山していただくよう希望します。これからも楽しく安全に長野県の山をお楽しみください。

 

中嶋豊さんプロフィール


長野県出身。1976年長野県警察山岳遭難救助隊員に指名される。外勤課、航空隊等において山岳遭難救助に多数出動したほか、山岳パトロール、遭難事故防止活動に従事

1980年単身オーストリア、フランス及び西ドイツに派遣されチロル山岳救助隊において山岳救助技術研修等に参加

1981?82年県警ヘリ導入時と、87?90年県政用ヘリ導入時の2度、県警航空隊に勤務し、レスキューを担当

1996?98年長野県警察山岳遭難救助隊第9代隊長

2009年3月?10年3月県警本部地域課長

2010年3月長野県佐久警察署長

2012年3月長野県警察本部・地域部部長

登山歴は35年余。80年、長谷川恒男氏と滝谷ドーム中央稜、P2フランケ登はん等。主に北アルプス穂高連峰涸沢をベースに周辺に出没。休日には日帰りで信州の里山歩きを楽しむ。よく行く山は、穂高のほか、虫倉山、風越山、独鈷山、黒斑山、平尾富士等がある。登山マップ作成のほか写真、渓流釣、地形図などの地図を見ることが趣味。最近、城跡、寺巡りを始めたほか、ポールウオーキングで佐久市内を歩いている。 


SMF唐松岳大会

                      2017.6.30 菊地俊朗

地元目線でみる後立山

〔T〕 後立山連峰への誤解

・明治以前は京都が首都だった

・だいら川 信越の堺

・加賀藩の奥山廻りなど足跡いたる所に

・立山詣と針ノ木越え。 小川温泉−栂池も

・硫黄とゼンマイの採取をめぐって

〔U〕 白馬岳を世に出したのは

・渡辺敏と窪田畔夫

・矢沢米三郎と河野齢蔵

・舘潔彦ら測量隊の功績

・鉄道の普及と前山の不在

〔V〕 松沢貞逸と百瀬慎太郎

・白馬舘と対山舘

・実業人と文人

・山案内人の誕生

・四ツ谷と細野の変遷

〔W〕 学校登山と近時の白馬

・女学生も登れる山

・最盛期は昭和30〜40年代

・白馬岳人気の下火の背景は

・誘客の工夫

 (2016年8月11日脱稿)

菊地俊朗さんのプロフィール


1935年、東京生まれ。早稲田大学卒業後、信濃毎日新聞社に入社。64年、ヒマラヤ遠征報道で日本新聞協会賞受賞。常務・松本本社代表を最後に退職。現在、山岳ジャーナリスト、日本山岳会会員