第8回 将棋頭山 開催要項

 

『遭難記念碑建設報告書』
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 長野懸上伊那郡教育会編、大正四年八月八日、同教育会発行、菊判、六十七頁、並製本より【非売品】

 

 大正二年八月二十六日五時四十分過ぎに、長野県上伊那郡中箕輪尋常高等小学校高等科第二学年男子児童二十五名、赤羽長重校長以下教員引率者三名、同窓会員九名の一行三十七名が木曾駒ヶ岳を目指して出発した。

 この駒ヶ岳登山は、高等科第二学年男子児童を対象に駒ヶ岳登山修学旅行として、数年前の明治四十四年から実施されてきた学校行事である。

 児童の服装は袷に股引、脚絆、草鞋(予備二足)、麦藁帽子の軽装とし、携行品して雨具、コザ(合羽)、防寒用真綿五枚、冬シャツ一枚、金剛杖、食料六食分を用意することなどが準備段階で指示されていた。

 コ−スは「伊那町内ノ萱より登山し、帰路を権現蔓根に取り、西春近春村小出口に下山する」という一泊二日の行程である。宿泊は山頂近くの伊那小屋と決めていた。雲に覆われていたが、空には青空も認められ次第に晴れるのではないかと予想している。

 一行は順調に歩を進め、濃ヶ池には午後四時に到着した。風はなく一面濃霧に覆われていた。ところが「駒飼の池附近に至るや天候一変し、俄然黒雲捲き来て冷たき谷風が襲って来た」。予定より一時間遅れの午後六時、ようやく伊那小屋に着いてみると、三尺ばかりの石垣に角材十数本のみという荒廃ぶりだったが、躊躇している場合ではなかった。直ちに薪の採集と小屋の改造に着手、石垣に角材を渡し、その上に這松、のの、合羽を重ね急拵の屋根を完成させた。

 夜が更けていくとともに風雨は強まり、寒気も加わってきた。その上、雨漏りで衣服は濡れ、焚き火もままならない。夜が明けても暴風雨はさらに強まり寒気は増すばかりで、ここにいては全滅を待つばかりである。脱出の方法を模索しているうち、児童の一人が気絶、顔面蒼白となり死亡、最初の犠牲者となってしまった。

 ここに至り校長は下山の準備を命じ、小屋を出た。先頭集団十八名は困苦の末に安全な喬木地帯へ入ることができたが、後続の姿はなかった。

 この頃、濃ヶ池から行者岩にかけて、赤羽校長をはじめ同窓会員一名、児童八名が次々と倒れていったのだった。

 遭難の直接原因は、直近の山小屋の状況確認を怠ったことだが、大惨事となったこの遭難事件は世間の同情を広く集め、遭難記念碑建設の義損金を募ったところ、全国から三万有余名から八百余円が寄せられた。記念碑は遭難現場近くの将棋頭山にある巨岩に文字が刻まれ、大正三年八月十五日に除幕式が挙行された。さらに一年後に本冊『遭難記念碑建設報告書』が発行された。

 遭難記念碑が建立されてから間もなく一世紀を迎えるが、碑面の文字は高山の激しい風化に晒されて薄れ、判読が難しくなってきた。そのため箕輪町の関係者らによって高さ一・二b、幅一・五bほどの副碑が造られ、二〇〇四年に遭難記念碑の前に設置された。


講師 唐木 勉(カラキツトム)さん

前中央アルプス山岳遭難救助隊長(現名誉隊長)
長衛祭実行委員長(南アルプスの開拓者「竹沢長衛」)
長野県山岳協会顧問

 1926(大正15年)長野県上伊那郡西春近(現伊那市)生まれ。公務員を務める、傍ら伊那市の市民登山を第1回から41回実行委員長を務める。伊那地方の中学校の集団登山の引率者の指導を42年間続けた。山岳救助隊員を48年以上続け、副隊長、隊長、名誉隊長を経て、権現づるね復活他、南アルプス、中央アルプスに、いまだ現役として名を馳せている。

古き登拝の道 権現づるね復活について

 唐木 勉    

  一 権現づるね

 伊那谷は北から南に流れる天竜川を中心に、西に中央アルプス(木曽山脈)が聳えており、東には南アルプス(赤石山脈)が連なっている。天竜川の東方高遠から西方を眺めると三峰川下流域の通称「かわくだり」地帯が開けて穀倉地帯をなしている。その先の天竜川右岸の段丘上には、西山からの袖野が広がっていわゆる「小出千石」といわれる肥沃な農耕地が拓けている。更にその上方には、南北の裾野の頂点に位置する、伊那の三大権現の一つである「西山権現」が祀ってある権現山が目に入る。そこから尾根が、辻山、八丁立て、将棊の頭、将棊頭山、馬の背、西駒本峰へと伸び上がっている。この尾根筋のうち、権現山(一七四九・三m)から将棊の頭(二六〇〇m)までの間が一般的に「権現づるね」と呼ばれている。

 二 権現づるね登山略史

 西駒ケ岳の検地検分は、高遠藩より尾張藩の方が一足早く、その余波は伊那側にも及んできた。高遠藩としても、幕府が言っている「高山険阻故御検地に及ばず」ではいつまでもいられなくなって、権現づるねが高遠藩の検地道として、また幾多の行者等の修験登拝の道として、そしてこれが伊那側最古 の道として拓かれていたことが古文書に残されている。

 宝永七年(一七一〇)八月三日、権現山麓の小出村(現伊那市西春近小出)の百姓ら二十人連れで「のふが池」(濃ヶ池)まで登って雨乞いをする。高遠藩による駒ヶ岳検分登山は三回実施されているが、最初の検分のみこの権現づるねを使い、他二回は中御所を登り権現づるねを下山路に使用している。

 元文元年(一七三六)八月五日から十日にかけて、高遠藩の領内検分のため、城代内藤庄左街門、郡代安藤太郎兵衛、その子金左衛門、代官岩瀬丈右衡門、中村甚右街門、従者共に二十一人、小出村、殿島村の百姓九十三人都合百十四人宮田村黒川入りの杣人を案内人に立て、小出付から権現山−東芦山(一泊)−西芝山−濃が池−検阻最難所(馬の背)。ここで案内の杣人に登攀ルートを問うと「以前もここまでで引き返したのでこの先の様子は分かりません」と答えた。ここまで来ればもう絶頂に登ったも同然と衆議一致し、遠見の方角を観察し記録した。いよいよ下山する段になって、城代内藤庄左街門は「ここまで登り嶺を目前にして帰るのは残念。絶壁での難渋は家を出る前から覚悟のこと。急げば間に合う。」と言うと安藤太郎兵衛はじめ一同同心したので、勇を鼓舞して絶頂を極めた。絶頂には文字の消えた分杭二本があったので「内藤庄右街門、安藤太郎兵衛他藩士 名、……都合百十四人登」と墨書して下山した。岩茸・岩鹿(カモシカ)猿・岩鳥(ライチョウ)等観察記録している。

 『駒ヶ岳一覧記』(安藤太郎兵衛)

 宝暦六年(一七五六)郡代阪本運四郎八月十一日から十六日にかけて、藩命を受けた阪本運四郎英臣は従者・人足を合わせて七十人が登山。

 宮田村白心寺−髭摺岩−帰命山石地蔵−中御所谷−清水小屋(樵小屋)泊。中御所谷−大滝(日暮の滝)−本谷つるね−這松帯泊。前嶽本峰(薮川嶽と戸台の嶽の間から昇るご来光を拝す)−一ノ嶽−尺丈嶽(宝剣岳)−二ノ嶽−三ノ嶽−四ノ嶽・四ノ峰−本釣根−のふが池の峰−大釣根−小尾根下泊。大釣根−小室嶽−泥ケ池−権現釣根−小出村泊。十六日山々の名所絵図認め−高遠帰着。

 嶽人参・さつき・黒百合等観察。山中で高声を出すと山が荒れるというので鉄砲打ったが何事もなかった、山男の足跡といわれていたのは、熊の足跡だったと記録されている。『駒嶽検分復命書』(阪本英臣)

 天明四年(一七八四)七月二十三日〜二十五日郡代阪本孫八俊豈(天山)等の十六名に村役人・山案内・外に人足・石工ら八十余名が宮田から父英臣とほぼ同じコースを辿る。この時駒ヶ岳の銘を前岳の岩に刻んだ。「霊育神駿、高逼天門、長鎮封域、維嶽巳尊」これが「勒銘石」である。

 『登駒嶽記』 (阪本天山)

 寛政年間、諏訪の行者林寂本は駒ヶ岳開山を志し、内の萱から小黒日影の尾根に出、辻で権現づるねと合わせた尾根を将棊頭に向かった。文化元年(一八〇四)開山を遂げ、修験者・信者等百人検分役として高遠藩士八人が登山した。

 天保三年(一八三二)乳ヶ岳(西駒ヶ岳本峰)頂上に駒ヶ岳神社本社殿を平澤貞一が再建した。彼は文政二年(一八一九)小出村東方の定右衛門の三男に生まれ、幼名を貞弥と称した。安政六年(一八五九)にも駒ヶ岳神社を改築し、上下伊那、諏訪の信者を集めて「駒ヶ岳開闢講社」を創立した。

 慶応三年(一八六七)権現づるね泥池付近に辻の小屋を建て信者の登山の便を図った。さらに明治二年(一八六九)本社殿を再改築し、同九年大鳥居を建立した。これら何回もの西駒ヶ岳登山にはすべて権現づるねを利用したものと思われる。

 天保十三年(一八四二)八月三日〜五日高遠藩の儒学者中村元起は藩士三人の他従者等四人と共に登山。小出常輪寺−権現祠−象戯峯(将棊頭)−馬の背−乳峯(本岳)−駒峯(中岳)−錫丈峯(宝剣岳)−前峯(前岳)勒銘石−馬飼清水(駒飼池−雄農池−象戯峰−岐路(右宮田左小出)−宮田に下山。

  『駒嶽紀遊』(中村元起)

 天保十四年(一八四三)七月十九日〜二十一日田中甚庵案内人と共に登山。権現づるね−将棊頭−農ヶ池−駒飼清水−錫丈嶽−地蔵嶽−駒嶽−小出に下山。          『登山記』(田中甚庵)

 明治十六年(一八八三)七月十六日小出の駒ヶ岳開闢講の人々は駒ヶ岳神社改築を行なっているが、往復権硯づるねを通ったものと思われる。

 明治十七年(一八八四)大成教の石川先明は、寂本行者の業を継いで西春近小屋敷から権現山−将棊頭を経て駒ヶ岳に至る登山道を拓いた。

 明治二十四年(一八九一)八月十二日イギリス人宣教師、W・ウェストンは、木曽上松を午前七時に出発して、駒ヶ岳−将棊頭−権現づるね−高い赤松林の中の巡礼小屋(辻の小屋?)五千呎の丸い出尾根−谷底の畑地へ下山して伊那部村(伊那市西町区伊那部)の「とんや」へ十二時間後の午後七時に辿り着いている。                 『日本アルプス登山と探険』(W・ウェストン)

 大正六年(一九一七)八月十八日霊神平沢貞一の遺志を継ぐ駒ヶ岳開闢講の人々が、子堀内楠太郎を中心として駒ヶ岳神社社殿を再建築している。

 以上のように「権現づるね」は西駒ヶ岳登拝の道としてその歴史は古く、多くの要人や行者等によって拓かれ利用されていた。大正時代に入っては、地元の人たちがよく利用していたようである。因みに大正二年(一九一三)八月二十七日に遭難した中箕輪高等小学校西駒ヶ岳修学旅行一行もこの権現づるねを下山路として計画されていたようである。

駒嶽紀遊(中村元紀)添付の地図

 

 

乳ヶ嶽(駒ヶ岳本峰)、駒嶽(中岳)

その手前 駒の雪形、その前方(黒川谷の源辺り)、駒飼池、駒がその水を飲むと言い伝えられている。

ノウ池(農ヶ池)、錫杖嶽(宝剣岳)、その下方が千畳敷カール、天狗岩、大瀧(中御所谷)がみられる。

 

  三 権現づるねの利用

 昭和になって、西駒ヶ岳登山もだんだん盛んになり、権現づるね利用者も地元をはじめ多くなってきた。それに合わせて地元では小出郷友会(小出青年会連合組織)が毎年七月上旬西駒ヶ岳登山道の切り開きを行なっていた。これは権現山から伊那小屋(現伊那市営西駒山荘)までのいわゆる「権現づるね」の熊笹刈りや、風倒木の除去などを行なう登山道整備作業で、私も昭和二十年七月初旬に参加した。(終戦何年頃まで続いたか不明)二十二年には従兄弟等と、翌二十三年には近所の友人と、この道を登り頂上から木曽上松町へ下り、汽車で塩尻を経由、辰野で電車に乗り換えて伊那町駅下車、その日の中に帰宅したものである。

 昭和三十四年、西春近付では公民館事業の一つとして村民登山を始めた。このときは犬田切川を遡って、権現づるねに出て、辻山−辻の小屋跡−八丁立−将棊頭−濃ヶ池−馬の背−本峰の道を辿った。この頃までは地元の中学校集団登山の下山路として利用されていた。ところが三十四年三十六年と大きな台風が本土に上陸して、その台風による風倒木が酷く、しかも時を同じくして、伊勢滝線や内の萱線に登山バスが運行されるようになり、更に四十二年には駒ヶ岳ロープウェイが架設され営業が始まったのでアプローチは一変してしまい、この歴史ある由緒深き登拝の古道「権現づるね」登山道は廃道となってしまい、国土地理院の地形図からも全く消えてしまった。

   四 古道復活の兆し

 時は移って平成五年(一九九三)私たち伊那山の会では、長年の念願であった会の事務所「遊岳舎」を伊那市西春近小出の北の端、大型農道添いに建設した。この近くに国土地理院の三角点(七七三・七m)がある。これを起点に権現づるね−西駒ヶ岳本峰冬期走破が課題となって一月十五日「成人の日の行事として何回か挑戦したが、風倒木と笹薮に阻まれて成功に至らなかった。そんな経過の中からなんとか成功させるために権現づるね古道復活の話題が例会の度に持ち上がってきた。そしてその前段としてまず権現山を市民の皆さんに愛される山にしようということで、その標高一七四九・三m(イナヨクミエル)伊那良くみえるの語呂に合うように整備を始めた。その結果足下の小出の平、伊那市中心街から高遠に及ぶ大俯瞰、さらに八ヶ岳から南アルプス全山の大展望が開けるようになった。

  五 古道復活に向けて

 私たちアルピニストのノスタルジアにも似た淡い夢の一方地元の西春近自治協議会では、歴史の道複活に熱い思いを巡らせて、伊那市・西春近財産区・森林組合・地元有志等で調査を進めた。平成十年(一九九八)には作業班を編成して整備作業に着手し、八月四日にはなんとか歴史の道の開削復活の作業を一応終了することができた。しかし本格的な登山道として利用するまでにはまだまだ時間と手間を必要とする。

 私も数年来メンバーの一員として、何回も同志と共に登山して、道捜しから開削に至る作業に携わってきた。全く変貌してしまった山容の中で、半世紀も前の記憶を思い起したり、地形図と高度計とを照らし合わせたり、又は「勘」を働かせたり、あるいは木によじ登って見通したりして、ルートを捜し赤いテープで目印を付けた。それにしたがってチェンソーや鎌、鉈で切り開く作業は大変なものであった。そして突然「92境界石柱」(通称信大ルートの標識)を発見、これに遭遇できたときはまさに山中で宝物を探し当てたような感動と喜びを覚え、胸にこみあげてくるものがあった。遠く三百年近くもの昔、祖先の百姓が雨乞いのために悲壮な覚悟で通ったことを思い浮べるとなんとも言い知れぬ感情に包まれたが、期せずして一同から万歳の声が沸き上がった。

 「大空に聳えて見ゆる高峰にも、登れば登る道はありけり」という明治天皇のお歌があったことを思い出した。そうだ、今拓かれたこの道は祖先の拓いた道であり本峰に通じているのである。私も老登山家と言われるようになってきたが、今後この道を地元の人たちといわず、一人でも多くの人たちに愛用され、大自然の中を一歩一歩登ってくれる日の近いことを願うものである。

   六 おわりに

 前項で述べたように登山道の維持管理は想像以上に大変な仕事である。幸いなことにルートが稜線上にあるために崩落は無いが、笹と倒木が酷い。郡代安藤太郎兵衛が『駒ヶ岳一覧記』に「すゞ竹と申す笹薮矢も通りかたき程に繁り候て勿論道御座無候 先へ人足共を立て押しわけ踏み分けさせ候て漸く罷り通り侯 此の薮の内に二抱え三抱え程づゝの本、古木、枯木之類何程共なく打倒れ……」と書かれている。またW・ウェストンも「さらに下ると熊笹があって、「足をとられそうだったが、やがてブナやモミの林に入って足がすべらなくなったのでほっとした」と書いている。

 昔から雑草は強しの譬えはあるが、熊笹はそれをはるかに凌駕する。これを抑制するには、化学的な方法もあると思うが環境問題もあってむずかしい。とすれば人海戦法によって刈り払う以外に方法は無い。

 平成五年から十八年まで行なった登山道整備や事業、登山の主なものを挙げてみると次の通りである。(含権現山登山)

 登山道整備二十一回、第一の鳥居建立、伊那市長視察、長野県山岳協会理事会視察、西春近公民館登山、中沢公民館登山伊那市民登山、駒ヶ根市民登山、平成の大検地西春近ルートBコース、遭難対策無線送受信テスト、しじゆうから会登山、西春近北小学校登山。       (伊那市西春近山本)

長野山協理事会権現づるね視察(平成11年)


講師 木下寿男(キノシタトシオ)さん

 1935(昭和10)年、長野県上伊那郡中沢村(現駒ガ根市)生まれ。1952(昭和27)年に千畳敷ホテルの増設工事の仕事を手伝ったことから、中央アルプスに入るようになる。以後、千畳敷山荘や天狗荘の管理人などを経て、1967(昭和42)年に中央アルプス観光株式会社に入社。同社が経営するホテル千畳敷の支配人として腕を振るうかたわら、中央アルプスにおける遭難救助活動や自然保護活動などに尽力してきた。また、地元の駒峰山岳会会員としても積極的に活動。中央アルプスや南アルプスにいくつかの初登攀の記録も持つ。

 中央アルプス遭難救助50年という経験と実績を持ち、山に対する毅然とした姿勢から中央アルプスに軍曹ありと言われ、「山の軍曹」の愛称で全国の山の仲間たちに敬われ、現在も補導員として山を訪れる人にアドバイス、自然保護パトロールを続けている。

【著書】
 中央アルプスで遭難救助50年 『山の軍曹、山を語る』 50年間の遭難救助の記録などをもとに「山の軍曹カールを駆ける」(山と渓谷社)を出版。

 中央アルプス千畳敷に立つホテル千畳敷は、戦後の中アの登山史とともに歩んできたような山小屋だ。その建築からかかわってきた木下寿男氏は、以後50年、地元遭対協のリーダーとして主な遭難事故の救出に活躍してきた。民間パトロールとして、中アの遭難に深くかかっわった「鬼軍曹」の半生記。

【内容情報】 宝剣山荘から緊急の連絡が入る。すぐに仕度を整えて、遭難現場へ。山荘の支配人でありながら、民間パトロールの第1人者として遭難者の救出に尽力した半生の記。

【目次】 1 カールの登山者もよう(標高二六〇〇メートルの観光地/自称"ベテラン"登山者の危うさ ほか)/2 静寂のなかの千畳敷(千畳敷の初めての山小屋/山小屋暮らしの日々 ほか)/3 心に残る救助活動(中アの遭難救助の最前線、千畳敷/遭難者を背負っていたころ ほか)/4 雪崩の恐怖(独学で学んだ雪崩の知識/三人の従業員を雪崩で失う ほか)/5 レスキュー・サイドストーリー(あわや凍死。夏山の危機一髪/雷の恐怖 ほか)

縦走ルート整備約半年間

千畳敷カール
越冬調査(昭和42)

ヘリ救助で効率
的になる(昭和50)

パートロール
(平成14/1月)

天狗沢を詰めて宝剣岳へ(昭和50頃)

集団登山の先頭を行く

宝剣山荘前身宝剣小屋

駒ケ岳山頂で宝剣山荘吉川支配人と

遭難事故防止のため千畳敷に補導所
       


自然保護と(中央アルプスの固有種)
ヒメウスユキソウについて 

              SMF事務局 矢沢 裕子

 坂口登山フェスティバル第4、5回の実行委員長をされた松井政子さん、当時緑風クラブ会長が、平成16年長野山協の自然保護委員長に就任され、私達20数名が委員となり活動を開始しました。長野県における活動範囲は広く、火打、妙高、浅間山域から三方ヶ峰、白馬岳から天狗原、栂池、および西穂方面まで行いました。また観光客が簡単に3000メートルの山々にロープウェーで登ってしまう千畳敷、この特殊な状況の植生や管理状況なども勉強しようと、同年9月、前中央アルプス山岳救助隊長であり長野山協筆頭顧問の唐木勉さんにお願いして自然観察会の講師としてご指導を仰ぎました。

 当日、私たちは稜線の状況を見るため、極楽平から宝剣岳を登り乗越浄土から八丁坂を降りて千畳敷カールに下り、宝剣岳稜線の植生観察を行いました。このコースは何度か通ったところです。最初はこの岩場を夢中で登った記憶がありますが、この時は岩場の草花なども細かく目に止まり写真撮影もして観察できたように思います。

 千畳敷で唐木顧問と合流して自然観察会の勉強をしました。まず顧問から自然保護活動をやると、山に行けないと言う話を耳にするが、そのような難しいことは考えず登山活動も自然保護活動の一環と考えてやってもらえればよいのではないか。との挨拶から始まりました。この言葉は今でも記憶に残る教えの言葉です。また、宝剣岳一帯には、極楽平、乗越浄土の地名がある。極楽と浄土があるから三途の川もあるはずだ。しかし、それがどこにあるのかはわからない。まさかと言う坂もあるから油断は禁物。と言われ、それから千畳敷コースを回りました。中央アルプスの地形説明で、ここには七つのカールがあり、そのカールの地形上から池ができている。濃ヶ池は爆裂湖という説もあるが押して私はカール底にできた氷河湖であると推察するとのことでした。勒銘石を指差して、このいわれについての説明や、これら登山の歴史も重ねて勉強して欲しいとの教えを受けました。

 頂いた資料の中に、唐木顧問が掲載した「ウスユキソウ雑感」があり、西駒特産のヒメウスユキソウについて詳しく書かれていました。私は寒さに耐える可憐な外套植物であるミヤマウスユキソウに哀愁を覚えます。それがこの小振りなヒメウスユキソウに更に興味を覚えました。簡略抜粋させて頂きます。


ウスユキソウ雑感」(上伊那郷土研究会発行)             唐木 勉

 私が、初めてウスユキソウと出合ったのは、昭和25、6年の夏、西駒ヶ岳に登って、であったろうか、「ある時、手にした中央アルプスのガイドブックの解説によると、「ウスユキソウその「フランネル」の様なわたわたしさ、そこに乙女的な感覚が溢れている」というものであった。以来私は「わたわたとしたういういしさ」に魅せられて今日まで西駒に登り続けて来たものである。-中略-「明治13年、谷田部教授が、西駒で黄色の花の下に厚い白い毛におおわれた葉が放射状に伸びた美しい花を発見した。」新種の高山植物だった。「ヒメウスユキソウ」この植物につけられた名前だ。とある。

 明治24年ウェストンは「日本アルプスの登山と探検」で「頂上は風化した花崗岩の狭いでこぼこした峰で岩の割目には二・三の高山植物が咲いていた。中に一つ色も形もエーデルワイスによく似た花があった。」

 高山植物の名前は地名を冠したもの、人・動物・物を模したもの、発見者、植物分類学者等がある。特に地名を冠したものは非常に多い。ヒメウスユキソウにはコマウスユキソウの別名もあるが、駒ヶ岳は日本中に沢山ある。従って固有名が付けてあれば大変わかりやすいと思う。「駒ケ嶽研究第二輯」には、うすゆきさう属の中に「キソコマウスユキソウ」と載っている。「キソコマ」或は「ニシコマ」でもよいが、この名前が広く世間に認知されていればよかったなあと思う。・・・・・

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 勒銘石 1784年(天明4年)高遠藩郡代坂本天山は、西駒に登り前岳の尾根で即興で四言古詩を詠み門子の岡村忠彝が岩の上に書いたのが勒銘石です。『霊育神駿 高逼天門 長鎮封城 維獄己尊』

 「西駒ヶ岳の霊が神の乗る馬を育て、その頂は高く天門にせまる。この山が長く伊那谷の平和を守ってきた。何と尊い山ではないか」(上伊那教育会・西駒ヶ岳登山案内」より)1931年に勒銘石保存建碑会(代表唐木文洋)が天山の子孫 海軍中将阪本俊篤(坂口三郎主宰の上官)の書で副碑が建てられています。